<< 星のかけら めんこいデール >>

メッセージ

a0099350_12232433.jpg

ヴァンサン♂ 寺出身 里親募集中



a0099350_12234993.jpg

ヴァンサン♂ お問い合わせはこちらから



 村上春樹さんのエルサレム賞受賞スピーチを読みたかったので、全文採録という週刊朝日購入。

 ちょうど先日、NHKの「その時歴史が動いた」で、アメリカによる水爆実験により被曝した第五福竜丸のこと、被曝マグロや放射能の雨に危機感をいだいた主婦たちによる署名運動のことが放映されていた。署名をお願いする主婦たちに向かって、ある人が「署名したところで何になる」と否定的なことを言う。それに対して、「何も言わないということ、沈黙しているということは賛成するのと同じなのです」と、主婦が答える。庶民の声は3000万人の署名というかたちになり、やがて国を動かすことになる…。

 村上さんがイスラエルに行き、受賞するのを阻む人たちもいたという。不買運動をしますよ、というプレッシャーもあったとか。

 生きている私たちは何がしか、他者に対して「メッセージ」、伝えたいことを抱えていると思う。それは人によりさまざまだけど、根底には「私はここにいるよ」「私はここで生きているよ」という、シンプルなメッセージではないか。
 ちまちまとブログを書いているのも、自分以外の人に伝えたいことがあるわけで。自分のために書いていることに変わりはないけど、メッセージを発するって大事なことだと思う。沈黙よりも。

 





「壁と卵」と死の影と        

村上春樹



 私は今日、小説家として、つまり嘘を紡ぐ専門家として、エルサレムにやってきました。
 嘘をつくのは小説家だけではありません。周知のとおり、政治家も嘘をつきますし、大統領、これは失敬ですが(会場、笑い)、外交官であれ軍人であれ、あらゆる場面で、ありとあらゆる嘘をつきます。中古車の販売員も、肉屋も、建設業者も。
 しかしながら小説家というのは、嘘をついても誰からも責められないという点で、ほかの職業とは違います。実際のところ、その嘘がよりおもしろく、より大掛かりで、より独創的に作られたものであればあるほど、世間からも批評家からも、より多くの賞賛を受けるのです(会場、笑い)。
 それはなぜか、という問いに対する私の答えを申し上げましょう。巧妙に嘘をつく、すなわち、それが真実だと思われるようなフィクションを創作することによって、小説家は真実を新たなかたちで世間に示し、照らし出すのです。
 ほとんどの場合、真実をありのままにとらえ、正確に描くということは実質的には不可能です。だからこそ、我々小説家は、隠れている真実の尻尾をつかみ、それを作り話の設定に転換し、フィクションの形態に置き換えようとするのです。
 これを成し遂げるためには、まず、私たち自身の中で真実がどこにあるのか、それを明らかにしなければなりません。それは、うまい嘘を作り上げるためになくてはならない大事な資質です。
 私は今日、偽りを述べるつもりはありません。できるだけ正直に語りたいと思います。一年の間で、嘘をつかない日というのは数えるほどしかないのですが、たまたま今日はその数少ない機会のひとつですので、正直に話させてください(会場、笑い)。
 日本で、非常に多くの方々から、エルサレム賞の授賞式には行くなと助言されました。行くなら著書の不買運動を行う、との警告も受けました。
 彼らが私にそのように言った理由というのはもちろん、ガザ地区で激しい戦闘が繰り広げられているからです。国連の報告によると、封鎖されたガザの街では1000人を超える人々が犠牲になっており、その多くが子どもや老人など、武装していない一般の市民です。


間違っていても
私は卵に寄り添う


 受賞の知らせを聞いてから何度も、私は自分自身に問いました。
 このような時期に文学賞を受賞するためにイスラエルを訪問することは正しい行為なのだろうか?
 私がイスラエルを訪問すると、衝突の片側だけを支持している、圧倒的な軍事力を使うことを選んだ国家を支援しているという印象を与えるのではないか?
 そしてもちろん、私の本が不買運動にあってしまってもいいのか、ということについても考えました。
 熟慮を重ねた末、最終的にはここに来るという決断を下しました。その理由のひとつは、あまりにも多くの人が「行くな」と言ったからです。ほかの多くの小説家と同じで、人から言われたこととまったく逆のことをやりたくなるというところが、私にはあるのです(会場、笑い、拍手)。
 小説家というのは特殊な人種で、自分の目で見ていないもの、自分の手で触れていないものについては、どれも信じることができない。だから今、私はこの場にいるのです。離れていようとするのではなく、ここへ来ることを選びました。見ないようにするのではなく、自分の目で見ることを選びました。だんまりを決め込むより、ここで話すことを選びました。
 ですから、私のメッセージ――とても個人的なメッセージを述べさせてください。それは、私が小説を執筆しているときに、つねに念頭に置いていることです。
 私は執筆しているとき、紙に言葉を書き、それを壁に貼り付けるようなつもりでいたことはありません。そうではなく、言葉を自分自身の壁に刻み付ける行為なのです。つまり、こういうことです。
 ここに高くそびえる壁と、壁にぶつかると壊れてしまう卵があるとすると、私はいつでも卵の側に立つ。たとえどんなに壁が正しくて、卵が間違っているとしても。私はつねに、卵に寄り添います。
 なにが正しくて、なにが間違っているかについては、ほかの人が決めるでしょう。歴史が証明するのかもしれない。しかし、もし小説家がどんな理由であれ、壁の側に立った作品を世に送り出したら、その作品にどんな価値があるのでしょうか?
 壁と卵という比喩が意味するところは、場合によっては、とても単純で明白です。爆弾だとか、戦車だとか、ロケットだとか、白リン弾というものが、高くて固い壁だとしたら、卵というのは、そうしたものによって潰され、焼かれて、撃たれてしまう、武器を持たない一般市民です。これは、比喩がもつ意味のひとつです。真実ではありますが、しかしこれがすべてではありません。もっと深い意味があるのです。
 こういうふうに、考えてみてください。私たちは、一人ひとりが個性を持ち、脆い殻に覆われたかけがえのない魂なのです。誰だって、そうなのです。そして、程度の差こそあれ、誰もが高くて固い壁と闘っている。システムという名を持つ壁と。システムとは、本来は私たちを守るために存在するものですが、時には勝手に暴走し、私たちに他者を冷酷に、効率よく、そしてシステマティックに殺すように仕向けるのです。
 小説家が書き続けることに、ただ一つの正しい理由があるとすれば、それは個の尊厳を掬い上げ、その生に光を当てることです。物語を作る目的は、私たちの生命を守るために警告を発し、システムが私たちの精神をもつれさせ、卑しめることを防ぐことなのです。
 一人ひとりの精神が持つ個性を書くことによって――生と死の物語を愛の物語を、人々を涙させ、怖がらせ、笑わせる物語を書くことによって明らかにしようと試み続けることこそが小説家の仕事だと、私は心から信じているのです。だからこそ日々、真剣にフィクションを作っているのです。
 私の父は昨年、90歳で亡くなりました。教師を引退して、たまに僧侶の仕事をしていました。父は京都の大学院で学んでいたときに徴兵され、戦うために中国へ派遣されました。
 私自身は戦後生まれですが、子どもの頃、父が毎朝食事の前に、自宅の小さな仏壇の前で深い祈りを捧げているのを見て育ちました。一度、父に聞いたことがあります。なぜ、祈るのか、と。すると父は言いました。戦場で命を失った人たちのために祈っているのだ、と。敵、味方に関係なく、戦争で亡くなったすべての人たちのために祈るのだ、と。


父から受け継いだ
胸の奥の「死の存在」


 仏壇に向かう父の後ろ姿を見ていると、父の周りに死の影が漂うのが見えるような気がしました。そして父は、私が決して知りえることのなかった記憶を抱いて逝きました。しかし、父が胸にしまいこんでいた死の存在は、私の中に私自身の思い出として残されています。それは、私が父から受け継いだ数少ない、そしてもっとも大切なもののひとつです。
 今日、私がみなさんに伝えたいことはひとつです。それは、私たちの誰もが、国籍や人種や宗教の違いを超えて、人間であるということです。固い壁、すなわちシステムというものに直面している、脆い卵だということです。
 どう見たって、私たちには勝ち目がありません。壁はあまりにも高く、強く、そして冷たい。私たちに勝てる見込みがあるとすれば、互いの個性を、つまり自分自身も他者も互いにたったひとりのかけがえのない精神を持つ者であると認め合い、互いのこころを結べば温かさを得られると信じることによってのみ、それは可能になるのです。
 このことを少し立ち止まって考えてみてください。私たち一人ひとりに、しっかりと存在する精神が宿っているのです。そのようなものは、システムにはありません。私たちは、システムに搾取されてはいけません。システムを勝手に暴走させてはいけません。システムが私たちを作ったのではありません。私たちがシステムを作ったのです。
 私が伝えたかったのは以上です。

訳・原賀真紀子


by amemiyataki | 2009-02-25 13:08 | 日常
<< 星のかけら めんこいデール >>